「普通の人を育てる社会」は、どこへ消えたのか

かつての日本企業には、多くの人を一緒に教育し、半ば強制的に一定水準まで育てる仕組みがあった。いま失われつつあるのは、研修制度だけではない。リモートワーク、ハラスメント配慮、AIによる初級業務の消失、人手不足下での経験者採用への集中——個別企業には合理的な選択の積み重ねが、社会全体では「誰も育てない」という協調失敗を生む。守るべきは終身雇用ではなく、普通の人が仕事のできる人へ育っていける可能性ではないか。

かつての「育てる仕組み」と、いま失われつつあるもの

かつての日本企業には、多くの人を一緒に教育し、半ば強制的に一定水準まで育てる仕組みがあった。新入社員は同じ研修を受け、先輩の仕事を手伝い、雑用や定型業務を繰り返しながら仕事の型を覚えた。本人が明確なキャリア意識を持っていなくても、仕事を割り振られ、失敗し、上司に修正される。その過程で、普通の人が実務者へと変わっていった。

もちろん、昔の育成を美化すべきではない。長時間労働、理不尽な上下関係、人格否定、個人差を無視した画一的な訓練もあった。しかし企業が育成コストを負担し、本人の初期能力や自発性だけに委ねず、必要な経験を積ませる機能は確かに存在していた。

いま失われつつあるのは、研修制度だけではない。多くの人が同じ場で学び、周囲に修正されながら、本人の意思にかかわらず成長していく土壌そのものである。

リモートワークでは、完成した成果物は確認できても、若手がどこで迷い、何を誤解したのかは見えにくい。ハラスメントを恐れる管理職は、必要な指摘まで控えるようになった。生成AIは調査や資料作成を効率化する一方、若手が仕事の基礎を身につけるための初級業務も減らしている。

自分で問いをつくり、必要な人を探し、AIの出力を検証できる人は、この環境でも成長できる。しかし経験の浅い人は、何が分からないのかさえ分からない。「自律的に学んでください」という言葉は公平に聞こえるが、実際には、それまでに得た教育、経験、人脈、自己効力感の差を拡大しやすい。

人手不足の中で、育成は誰も担わなくなる

さらに企業は、深刻な人手不足に直面している。人を求めているのであれば、未経験者を採用して育てればよいと思われるかもしれない。ところが、現実には逆の力が働く。採用した社員が短期間で退職すれば、採用費、教育費、指導工数、引き継ぎ負担が損失になる。次の人を簡単に補充できないため、一度の採用失敗が企業に与える影響も大きい。

若者を一括して「忍耐力がない」と断定するのは正確ではない。しかし、会社への長期帰属を当然とせず、仕事内容や成長実感、人間関係が期待と違えば、早期に環境を変える人が増えていることは無視できない。厳しい修正を受ける経験が少ないまま社会に出る人もいる。

この状況で企業が、実績があり、自走でき、早期離職の可能性も低い人材へ採用を集中させるのは、個別企業の行動としては合理的である。管理職にとっても、時間をかけて育てるより、できる人に仕事を集めた方が短期的な成果を出しやすい。

経験のない人は、雇われなければ実績をつくれない。企業は、実績のない人を育てるリスクを負いたくない。未経験者は仕事を通じて能力を得る入口を失い、企業はさらに「採れる人がいない」と感じる。

しかし、すべての企業が同じ行動を取れば、誰も将来の即戦力を育てなくなる。これは個々には合理的でも、社会全体では人的資本を減らす協調失敗である。

二極化と、市場が育てない現実

その先にあるのは、強い人と弱い人、エリートとそれ以外への二極化ではないか。

一方には、良質な教育、実務経験、人脈、AI活用能力を持ち、企業や国境を越えて活躍する人がいる。もう一方には、十分に訓練されないまま低付加価値業務を続け、自分が何を身につければ状況を変えられるのかも分からない人がいる。その間にいた、現場を理解し、周囲と調整し、後輩を育てる「厚い実務中間層」が縮小していく。

米国型の競争的な労働市場には、能力のある人を発見し、生産性の高い企業へ移す力がある。しかし市場が得意なのは、既に育った人の選別と再配置であって、まだ強くない人を基礎から育てることではない。

日本は、従来の企業内育成を弱めながら、それに代わる職業訓練、能力認証、再教育、再挑戦の仕組みを十分につくれていない。雇用や組織の閉鎖性は残したまま、育成だけが自己責任化しようとしている。

人ではなく仕事に厳しく — 誰が、まだ何者でもない人を育てるのか

必要なのは、過去の日本型雇用への回帰でも、結果を横並びにすることでもない。

入口では、一定期間、必要な経験、反復、指導、フィードバックを広く提供する。そのうえで、仕事の基準と成果は厳格に評価する。人ではなく仕事に厳しくし、基準に達しなければ、別の役割や職業へ移れるようにする。企業だけで負担できない育成は、業界や社会全体で支える。

日本が守るべきなのは、終身雇用ではない。普通の人が、他者との関係と一定の強制力を持つ環境の中で、仕事のできる人へ育っていける可能性である。

企業がその役割を手放すのであれば、誰が、まだ何者でもない人を育てるのか。

その答えを持たないまま日本型育成だけを解体すれば、残るのは自由で活力のある労働市場ではない。最初から育っている人だけが次の機会を得る、固定化された優勝劣敗の社会である。それが日本という国、文化、そして人々にとって本当に望ましい姿なのだろうか、と思わずにはいられない。

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